動作「自立」について、PTとOTの認識の違い
たぶん、PTが悪い。
もしかしたら、僕だけかも。
動作の自立度について、
介助がいらなくなったら、「自立」と。
問題になるのは、ときに、特定の、動きの手順や、運動パターンでないと、「自立」できない場合であって、その動き方が、自然に出てこない場合。
例えば、声掛け、あるいは、一回失敗して「あっ、そうだ」と意識しなおして動く場合とかも。
こういうのをどう言うか。
少なくとも、僕は「自立」と言ってしまっていた。
「できるよ」と。
でも、OTさんとか、ちゃんと日常生活レベルのことを考える人は、「自立ではない」と。
確かに、そりゃそうだ。
いわゆる、「できるADL」と「しているADL」とも言える。
問題の本質は、「Fittsの運動学習段階」。
つまり、認知段階や連合段階では、潜在的に優位な運動パターンが目標の動き方でないため、日常生活の中や、環境の変化によって、目標とする動き方ができず、結果「できない」ときがある、ということ。
さて、どうするか。
はい。
表現を整理し、統一しました。
介助がいらなくなっても、声掛けがいる、運動学習の認知段階は、可能ー認知レベル。
介助がいらなくなっても、運動学習の連合段階なら、可能ー連合レベルで、遠位監視。
介助がいらなくて、運動学習の自律段階になったら、自立と。
うちでは、そのように統一いたしました。
はぁ、スッキリ!